GUNSLINGER GIRLを読んで。(感想の話)

ひとりごとシリーズ

今回は「感想の話」

秋学期が始まってから、大学の友人に漫画を借りていた。

_(._.)_

いつしかInstagramのストーリー機能でおすすめの漫画を募った際に教えてくれた作品である。

作品名は「GUNSLINGER GIRL」

初めて聞いた作品だったので、俄然興味が湧いた。貸してくれるとのことで、遠慮なく読ませていただいた。今回はその漫画が読み終わったため、感想を書いて記事にする。

φ(..)カキカキ

もともと直接ラインで送るつもりだったが。貸してもらった友人からの、記事にしてほしいというリクエストがあったのだ。

ネタ不足に悩んでいる俺としても、助かる。

正直、今回はその友人しか読まないと思っている。でもしょうがない。たまには、そんな一人だけをターゲットにした記事も悪くない。

それではさっそく。

∠( ゚д゚)/

 

一巻ごとの感想

全巻を一気に貸してもらったわけではなく、会うたびに一巻ごとに貸してもらっていたため、とりあえず一巻ごとの感想を作成していた。

最終巻まで読んだ後の、全体を通した感想はあとで書くとして、まずは一貫ごとの感想を以下に記す。少々要約やメモのようになってしまっていて申し訳ないが、気にせず読んでいただけると助かる。

 

1巻

最終兵器彼女のイメージで読み始めたので1話完結のオムニバス形式に少し意外性を感じた。1話の中で様々な感情を呼び起こさせる。義体という聞きなじみのない言葉。一方で条件付けという言葉からは、心理学に通じる現実味を感じさせる印象。

2巻

スペイン広場でジェラート。ヘンリエッタは、映画「ローマの休日」の一場面に憧れていた模様。
アンジェの銃(AUG)組み立てシーン。「組み立て方はすっかり覚えているんだね。楽しいことも哀しいことも…大切なことはかんたんに忘れちゃうのにね」条件づけの薬物投与によって失われる感情的な記憶と、体に染み付いた重機の扱いのコントラスト。今すぐ読むのをやめて寝たくなった。
流星群観察の際、ベートーヴェン第9番。「♪天蓋の果てに神を求めよ!星々のかなたに神はかならずやおはしますのだ♪」明るい場面ではあるが、少女たちが無意識に神を求めているかのように感じた。
将来なりたいものについて聞かれ、答えられないリコ。その後の会話。「そんなに死にたいなら止めませんけど、もったいないと思いますよ?」絵描きという、なりたいものがあるフィリッポさんに対しての言葉。なりたいものを答えられないリコにとっては、なりたいものがあるのに「もったいない」ということではなかろうか。
2巻最後のアンジェの話には胸が締め付けられた。鉄砲を打って怖かった?という質問に対し「ううん…やらなきゃいけないことだから平気」これは解釈の難しい発言だった。「やらなきゃいけないことだから怖くない」なのか、「怖かったけど、やらなきゃいけないことだから平気(我慢できる)」なのか。後者だとすると、まだ感情がしっかり残っているだけに辛い。とはいえ、「怖い」を感じるこ図とすらできない前者よりはましかもしれない。

3巻

トリエラが「ピノッキオの冒険」を読んだ際、「ふざけた話だ」と一蹴。おそらく、最終的に人になれたピノッキオに対して、普通の人間に戻れない自分を重ねている。物語は「めでたしめでたし」で締めくくられているが、自分の将来にそれは訪れないと考えているかもしれない。

4巻

ヘンリエッタが道路の縁石を歩く。リコがジャンに「歩道を歩け」と言われ手を引かれるのを見た直後のことであった。ヘンリエッタもジョゼに振り向いてほしくて縁石を歩くが、ジョゼは気づかない。ヘンリエッタの気持ちに応えない(応えられない)ジョゼ。二人の関係を表している。ヘンリエッタの「大事にされているのは分かる」でも「もっと大事にされたい」。普通の年頃の少女を匂わせる発言。人間味が強い。
ジョゼがヘンリエッタに触れる。歩み寄り。
トリエラ。義体になる経緯。手術中の夢は記憶の追想。

5巻

トリエラvsピノッキオ:戦闘シーンは躍動感のある作画。注目は決着後。ピノッキオを殺したことを、嬉しそうそしてどこか誇らしげに報告するトリエラ。それを無言で抱きしめるヒルシャー。トリエラは「あの…ヒルシャーさん?」と、その行動の意味がわかっていない様子。想像するに、ヒルシャーとしては、独断でピノッキオと応戦したトリエラへの心配からの安堵。そして何より、人を殺したことを嬉しそうに報告する少女に対する言葉にならない感情が行動に出たのだろう。

6巻

エンリカとヘンリエッタを重ねるジョゼ。一見こちらがフォーカスされているように思えるが、エンリカの幻影を見るなど、より顕著に重ねてしまっているのはジャンではないだろうか。ただし、ジョゼの、ヘンリエッタに対する兄的な振る舞いも表現されているのは事実。実妹にできなかった兄としての接し方を、ヘンリエッタを通して行っているように見える。

8巻

冒頭、ペトルーシュカの回想。エリザベーダ時代の発言「バレエは別人になれるのがいいよね」皮肉にも現在は別人のようになっている。当時のナターシャへの憧れが、今のペトラの人格を形成している印象。サンドロへの好意。他の義体と比べても「恋」を感じさせる。これもエリザベーダ時代にナターシャから「もっと男の子と遊んだら演技に幅ができるかもよ」と言われたことが影響しているかもしれない。条件づけに反応しながら愛を伝えるペトラに、義体以上の何かを感じるサンドロ。今までのどの義体よりも人間味を感じる。

9巻

アンジェ昏睡後のマルコーの発言「そんな利己的な理由なんだ」「人は自分の都合で生きる」これは本心だろう。アンジェのためになることが自分のためになる。
義足の少年。義体の残したデータが確実に生きている証拠。彼女らの存在によって救われる人間がいるという証拠。
ジョゼの発言「懺悔の機会を奪われる事は辛い」。公社の人間の深層心理にある罪悪感の正面化。
アンジェの今際。さっっすが泣きそうになる(泣きはしない)
アンジェの死に対するリコの感情。「悲しくない」ということが極めて悲しいということに気づけない虚しさ。それでも悲しくないことが正しいのかは分かっていない様子。

10巻

トリエラとヒルシャーの話。ヒルシャーも他の担当官と同様に、トリエラという義体を単なる戦いの道具として見れていない。どころか、本来戦いに赴くはずのトリエラをホテルに残し、単独で仕事に向かう。ついに戦いに参加させない担当官が現れたことに少し驚く。葛藤はしながらも仕事はさせると思っていた。生きる意味を戦い以外に見いだしてくれる存在の発現。ヒルシャーに睡眠薬を使用し、一度は別れを告げるものの、やはりその愛情故離れることができない。ともに生き、死ぬことを決意する。義体の人間らしさがどんどん如実に現れている気がする。

11巻

ジャコモ戦。鐘楼投入に際し、義体の犠牲はやむなしという判断が出る。ジャンとジョゼは復讐に燃え、犠牲を肯定する一方、ヒルシャーはトリエラの無事を祈る。そのトリエラも、自身の戦う意義を生きることに見いだしている。
復讐を達成できなかったジャンはリコにきつくあたる。義体を道具として見ている担当官の象徴的なジャンだが、ここから変化するのか楽しみ。

12巻

ヘンリエッタの記憶障害。記憶のフラッシュバックにより、戦線を離脱するか寿命は縮まるが投薬により戦線に加えるのか、葛藤するジョゼ。ヘンリエッタとエンリカを重ねている。1年前と同じように2人で星を見るが、その1年前を彼女は覚えていない。その後投薬を決意する。復讐の道具としてヘンリエッタを使用することに決めたのだろうか。

13巻

条件付けを終えたヘンリエッタ。感情を失い。完全に戦うための道具となった。見ていて苦しいものがある。ジョゼはオリオン座の神話を尋ねるが、当然答えることはできない。ジョゼはどのような意図でこの質問をしたのだろうか。おそらく色々と諦めるためだと考えられる。ある意味開放され、楽になったと語る。が、後エンリカの幻影に逆らい、ヘンリエッタをかばうシーンを見せる。錯乱したヘンリエッタに撃たれ、報いだと感じる。どこまでいっても救いがないように思えてしまう。

14巻

冒頭からヘンリエッタとジョゼの心中に胸が苦しくなる。救いがないように見える反面、一種の救いのようにも見える。ようやく2人の地獄のような戦いの日々にひとつの決着がついた印象。続いてリコとジャンに場面は移る。ジャコモはジャンを盾にするが、ジャンは「自分ごと撃ち抜け」と指示する。葛藤するリコだが、最終的にジャンの悲願の達成のため引き金を引く。「先に逝く」という言葉に対して「一人にしないで」と泣き叫ぶリコに胸が締め付けられる。ヒルシャーとトリエラの死。死の場面はあまり触れられていないが、死に様を生き方とする切なさを物語っている。

15巻

マルコーの発言「俺たちは地べたを這ってでも生きる」「もし死んだら誰がアンジェリカのことを覚えていられるんだ?」
死してなお、アンジェに対する強い愛情は健在だと思わされる。義体を一人の死者として扱い。忘れる事が第二の死と捉えているような印象。
公社を守るため、一人で軍に立ち向かうクラエス。義体の中で唯一、殺人行為に囚われていない存在の象徴。「菜園、書と音楽」「ささやかな生活」を守るために戦う。技術者たちも「彼女は”もう”兵士じゃない!静かな日常を愉しむだけの女の子だ!」もはや技術者たちでさえも義体を一人の人間として扱っている。
ラストシーン。明記はされていないが、褐色の肌と髪色を見る限りトリエラの卵子を使用した子供だと思われる。絶望の連続のような物語だったが、それでも微かな希望に目を向ける少女たちの切ない生き様。とても面白かった。

全体を通して

すでに4000字を超えているため、少し手短に書く。

全体を通して、俺がこの作品感じたものは「人間の恣意の醜美」

「恣意」という言葉には「自分勝手」という表現が含まれている。俺がこの作品に感じたものがそれだった。

義体を殺人の道具として扱う恣意。同じく復讐の道具として扱う恣意。かと思えば、同時に家族のように扱う恣意。悪い言い方をしてしまえば、自分勝手に手のひら返しをしているに過ぎない。

条件付けや投薬。現代の倫理観では到底あり得ない行為。すべて政治のための利用のために行われていることだ。人間の恣意性の醜さを感じずには読めない。

しかしながら、読んでいる我々としては一概にその恣意性に負の感情を抱くわけではない。というのも相手のことを思いやる恣意があるからだ。

一見、相手のことを思いやることと自分勝手な恣意性は相反するように感じるが、これは共存するような場面がいくつか見られた。

特に直接的な表現が見られたの9巻。アンジェのために犬を探すマルコーの発言にその真意が見て取れる。「人は自分の都合で生きる」この「自分の都合」とは、自分のわだかまりを晴らしたいという都合。

アンジェを助けたいという本心を隠しているのか、それとも本心なのかは定かではない。おそらくどちらもあるのだろう。

必ずしもどちらかという話ではない。このマルコーのエピソードから、自分の都合で人を助ける人間の美しい恣意性を感じた。

西尾維新の物語シリーズにおいて、たびたび見られる「ひとは一人で勝手に助かるだけ」という言葉の一つの解釈にもなるように感じた。

誰も救われないようで、誰もが何かに少しだけ救われている物語。

全15巻だったが、たいへん満足度の高い作品だった。

作者の相田裕先生には尊敬を、貸してくれた友人には感謝をささげ、この感想を終わる。

 

2024/11/11 5160字

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