今回も「レポートの話」
2日連続レポートを公開。
とはいえ今日のはリアルタイム。というのもそのままで、本日書いたレポートを大公開。
内容は、秋学期に履修している「近代日本社会と人権」の最終レポートである。最終レポートということもあり、最終期限は1/29だが。
レポートのテーマが公開されたので書く。
面倒ごとは先にやるのが俺なのだ。
レポート内容
レポートの内容は以下の通り。
相変わらずの変態性で、2000字以上の制限で7000字以上書いている俺ではあるが。
多い分には評価は下がらないと信じて突き進む。
もし同じ授業を取っている人がいる場合、剽窃するとお互い単位もらえないので。そこのところ頼みます。
まじで。
それではさっそく。
本編
私は「増補 近代文化史〜明治から現代まで〜」の中から第五章と第六章に注目し、要約、そして自分の思考を深めました。重要な部分が多いあまり、要約が長くなってしまったことは否めませんが、どうかお付き合いいただけると幸いです。
第五章要約
戦後、部落解放運動が本格的に動き出す。
はじめに注目されたのは、身分差別の根源としての絶対主義的天皇制。天皇への距離が国家社会的地位を決定すると分析しで見せた部落解放側だったが、戦前ことに戦時下において「天皇の赤子」として部落外民衆との一体感を拠り所としていたため、天皇制打倒を掲げる人々も自己の内面と照らし合わせることはなかった可能性が高い。こうして部落解放全国委員会は、その決議において、「華族制度・貴族院・枢密院その他 一切の封建的特権を廃止して身分的差別の撤廃を期す」と掲げるにとどまった。
また、天皇制と並んで封建制打倒という空気も、当時の社会を広く覆っていた。講義でも拝見した島崎藤村の「破戒」にて、「封建」と「文明開化」の対比がそのまま、この 映画がつくられた時代の「封建時代の亡霊」と新憲法に代表される「自由と平等の精神」との対抗という図式に重ね合わせられている。
戦後、復興の一環として行われた農地改革だったが、所有している農地の極端に少ない農家には恩恵の少ないものだった。零細な小作品の多い被差別部落では、特にその対象から外される人数が多かった。もちろん農地改革によって自作地を持てたところもあったが、農業経営のみで生計を営めるほどの規模ではなく、依然、差別によって安定した仕事に就く道を阻まれながら、戦後復興の中で部落外との格差を余儀なくされ、 しだいにとり残されていったのである。
「破戒」上映から3年、「オール・ロマンス事件」により、戦後復興からとり残された被差別部落のありようが露見した。部落解放運動はこれを好機と見 なし、「差別される実態」の改善を求めて土木行政 ・保健衛生行政・民政行政・教育行政・ 水道行政・経済行政にわたる二三項目をあげ、京都市政に対する闘争を挑んだ。
オール・ロマンス事件が起こった年の10月、三重県松阪市の全日本自由労働組合員二七 一名が市職業安定所に完全就労を要求して座り込み、検束されるという事件が起こる。また、立て続けに「西川議員差別事件」などが発生し、部落解放全国委員会は、部落差別は地方自治体の、ひいては政府の行政的貧困に起因するとして、政府に「部落解放行政に関する要請書」を提出し、行政闘争や国策要求にいっそう力点を移していった。また、それらの牽引力としては、深刻な部落問題の現実に直接向き合い、 被差別部落住民との接触の窓口となる地方自治体が選ばれざるを得なかった。
この頃。部落解放全国委員会は、名称を「部落解放同盟」とあらため、名実共に部落大衆を動員し、組織し得る大衆団体としての性格を明らかにし、そして真に全部落民団結の統一体として、解放闘争を飛躍的に拡大発展させようとした。
戦前の婦人水平社が普及しなかったように、被差別部落の女性が全国委員会の運動に参加していくまでには、多くの時間を要した。それでも、青年婦人会議の発展や日本母親大会の開催などを通し、着実に歩を進めた。また、女性の社会参加の前に、夫の反対という壁が立ちはだかることはしばしばであったが、ようやく一九五六年三月二二日、部落解放同盟中央青年婦人対策部の主催 により、京都市皆山中学校で部落解放全国婦人集会が開催された。
次世代に差別を残さないため、根底的な改善を図る同和教育においても、様々な考えが巡っていた。それまでの十全でない同和教育に変わり、従来の「同和教育」が抱える地域間の実践のちがいの大きさを痛感しての連携・情報交換の必要と、運動の力量の拡大をはかることの重要請が認識された。
戦後、高度経済成長を迎えた日本において、生活水準、教育、そして就職と、不利な状況に置かれてきた被差別部落は、ますますそうした変化から取り残され、被差別部落と部落外の格差が顕著になった。政府は、このような流れの中で高まりつつあった国策樹要求に押されながら、同和対策審議会を設置した。その背景には、日本の経済成長によって生み出された、同和対策に踏み切るだけの経済力の蓄えがあった。
この時期は、亀井文夫の「人間みな兄弟」を代表とし、様々な部落解放に関連する作品の頻出した時期であった。これらは、裏を返せば被差別部落の否定的イメージを増幅させる可能性も孕んでいたが、各地で放映された。
1962年、市川崑監督によってふたたび『破戒』の映画化が行われ、その批評として「人種差別がいぜんとして生きている現代」という記述がある。これは、部落差別を「人種差別」として捉えていることに他ならず「身の素性」を克服することの困難性をよく表している。
1960年5月10日、自由民主党の強力な後押しのもと、全日本同和会が結成された。また、結成に尽力した山本政夫は、一貫して被差別部落の経済問題を抜きに部落問題の解決はありえないとの立場を堅持し、環境改善対策、産業経済対策、教育対策の順序で格差是正を目指すことを支持した。
1965年、同和対策審議会において、部落問題の解決は「国の責務」として認められ、これはもはや部落問題対策は体制内のものとなったことを意味していた。また、それに準じて対象地域における生活環境の改善、社会福祉の増進、産業の振興、職業の安定、教育の充実、人権擁護活動の強化等を図ったが。則った政策は容易に着手されず、事業が全国各地で進展して行ったのは1970年代半ば以後のことであった。
第六章要約
「市民社会」への参入と未だ残る課題
部落解放同盟は「国民運動」と評し闘争を展開したが、同対審答申の評価をめぐっては日本共産党支持派と部落解放同盟の非共産党の対立が表象化することとなった。矢田事件や八鹿高校事件が両者の対立を深め、1975年、日本共産党の「国民的融合論」提唱により部落解放運動は分裂に至った。
1963年の狭山事件を発端に、同和対策事業への関心は高揚を見せた。この事件は、既存の差別を利用して権力によって創造され、被差別部落が犯罪の温床であるかのような印象をもたらしたという意味で重大である。また、この事件により、千葉県をはじめ狭山闘争への組織活動に応じる中で支部の組織化が進められていく場合が少なくなかった。
さらに、そうした運動に拍車をかけたのは、1975年の「部落地名総鑑」の発覚であった。これは、全国の被差別部落の地名や所在地、戸数に職業などをリスト化したものであり、240もの企業が購入していた。この事件の発覚により、部落問題の根底を形づくる就職差別の揺るぎない証拠が示され、部落解放同盟はその糾弾に取り組んでいった。この一件以来、就職差別問題は大きく好転するが、未だ完全な解決には至っていない。
就職差別の軽減が同和対策事業も進展し、被差別部落と部落外の格差が縮小、そして「市民」が作られていった。この頃登場した中上健次はその作品を通して「差異のない」ことが差別のないことにつながるのかという、根源的な疑問投げかけた。
戦後の部落解放運動を改めて振り返り、再点検する動きも生じてきた。中心となった師岡佑行は社会学や文化人類学、民族学などの方法を取り入れることを提案した。
1986年にまとめられた地域改善対策協議会の「意見具申」により、①民間運動団体に追随している行政の主体性の欠如、②施 策の実施が、「同和関係者」の自立、向上をはばんでいること、③民間運動団体の「行き過 ぎた言動」が「同和問題はこわい問題であり、避けた方が良い」という意識を生み、さらに それを利用してえせ同和行為が横行していること、民間運動団体の「行き過ぎた言動」が、同和問題についての自由な意見交換を阻害していること、の四点が指摘された。これに対し、社会学者の杉之原寿一がまとめた冊子によれば、今後目指すべきは「国民融合」であり、おおむね差別は解消したとされた。
このような流れの中で、発達心理学者のエリク・エリクソンを参考としたアイデンティティ論としての「部落民」が考えられるようになった。この「部落民とは」という問いは、中国史研究者の藤田敬一による差別・被差別の「両側」が、その「立場」や「資格」へのこだわりを超える努力をしなけれ ばならないという議論を経て、前面に押し出されることとなる。
藤田はその後も議論を喚起し続け、その問いかけは、やがて「部落民とは何か」という議論に発展していく。部落と部落外の境界が揺らぐ中で、「部落民としての意識」自体を対象化し、それによりかねてからの主張である「両側から超える」ことを目指した。
他方では、1980年代頃から他のマイノリティと連帯する動きが見られてきた。連帯する対象も、在日朝鮮・韓国人、アイヌ、沖縄、障害者、ハンセン病回復者、性同一 性障害者、同性愛者、など、広範に視野が及んだ。このような「他者」との連帯は、“外”からの批判によって促されたという側面もあった。また連帯は、その足跡を明らかにする だけでは心情レベルにとどまる可能性がたかく、連帯を必要とする差別を生みだしている構造に目を向けてこそ、その意義が明らかになるとされた。
1990年代頃、部落史の再点検も指摘され「政治起源説」や部落の「ゆたかさ」について見直されはじめた。部落差別の起源となる賤民身分は、江戸時代に突然つくりだされたものではなく、それ以前からの社会的差別を一方で引き継ぎながら、権力者がそれを制度的に整えていったと捉えられるようになる。また、部落の「ゆたかさ」に焦点を当てることによる利点と一方で悲惨さを語ることが部落解放に反することであると捉えれる態度も生じた。
たしかに「ゆたかさ」からくる「誇り」も重要だが、一方でそれは差別の歴史や実態に踏み込まず『安全地帯』に自らの身を置くことを意味するのではないだろうか。それでは、長年苦しめられてきた「身の素性」の克服には至らないと考えられる。
この頃の制作された「人間の街」と「家族」は、部落問題のありようは確実に変化したが、その中でなお執拗に存在する結婚差別の問題を直視しなければ ならないという、セットで“いま”の部落問題を語っているといえるだろう。
この“いま”の被差別部落民像を伝えようと、被差別部落出身の若者たちが立ち上がり、「新しい部落民」をスローガンに活動していた。このような『新しい”世代の発信は、さらに「BURAKU HERITAGE」などとなった。それは「部落にルーツを持つ人もいれば、そうでない人」もメンバーとし ながら、部落に関して【「わたし」として思っていること】を積極的に発信していく場となった。
1982年、時限立法であった同和対策事業特別措置法が期限切れを迎えると、改めて「地域改善対策特別措置法」が時限立法された。この頃から、部落問題は人権問題として扱われることが多くなり、その問題性が問われることとなる。というのも。それが部落問題の『人権一般”への解消として、かねてから部落問題を避けて通りたいと思ってきた人びとが部落問題と向き合うことを回避する正当化のための方便になるとしたら、そこには重大な問題が孕まれているからである。
特措法廃止後も、「ネオ・レイシズム」といわれる状況はあとを絶たず、「同和利権」に関する問題も露呈しはじめた。また、この頃発表されたアメリカの研究者J・マーク・ラムザイヤーによる論文は、事実に反した部落差別を煽るものであり、ラムザイヤーのこのような認識を形づくるに至った言説が日本社会に存在している問題性も指摘された。
時代は流れ、2017年の内閣府政府広報室の調査では、部落問題への関心は高いとは言えないことが分かった。関心の低いことが差別の軽減を意味するわけではなく、現に、啓発や教育の場においても、「人権」の名のもとに、目新しい問題に取って代わられ、部落問題が取り上げられることが少なくなっている。
部落問題が現存する世の中において、人権の話の中で回避される傾向にある理由としては以下のものが考えられる。1つ目は、生半可な知識で語ることによって差別問題を引き起こすということへの怖れであり、もうひとつは、部落問題の不可視性である。昨今、“目に見える”マイノリティの方が圧倒的に人権問題の中でも注目を集めるため、マジョリティはそれらを取り上げることで差別の問題にとり組んでいるという免罪符を手に入れ、不可視性の高い部落問題から目を背けていると考えられるのだ。
部落問題が存在しないとはいわないまでも、「解消に向かっている」がゆえに問題にする必要がないという考え方も、部落問題が置き去りにされる要因になっている。“人権の時代”である今日、かつてにくらべて問題が軽減されているのは、部落問題はもとより他の差別問題もおおむね同様であろう。学生たちの「部落問題を知らない」「何も気にしていない」、だから伝える必要はないという「寝た子を起こすな」につながるような意識も、そうした部落問題認識を下支えするものといえるのではないだろうか。
部落問題は可視化されにくいがゆえに「無化」されてしまう傾向も顕著である。また、インターネットの普及に伴う新たな差別のあり様に取り組み、既存の運動とは異なる方法で差別の根を絶とうとする試みが続けられている。
中国文学者の竹内好は部落問題を普遍的人権として捉え、非当事者が差別はないといい切ってしまうことの暴力性を指摘した。また、その普遍性は人権を自らたたかい取るべきものとして表現され、すなわち部落問題についていえば差別を自覚し、それを自ら改めていく態度の大切さを強調したのであった。
ここからは、第五章と第六章を読み、私の考えたことを述べます。
私が著書で最も印象に残ったのは250ページの「企業の論理は、本来、被差別部落出身者を排除することとしないことの利害得失を勘案して判断するものである。被差別部落出身者に対しては、これまでにも見てきたようなさまざまな偏見と運動団体の存在を理由に、リスクや面倒を避けるという理由で忌避や排除が行われてきたと考えられるが、ここに至って企業側も、被差別部落出身を理由とする一様な排除は逆に有能な人材を逃すという損失をもたらしかねず、そのデメリットの方の大きさを認識する転機になったと思われる。」という記述です。
この記述から、部落差別によって企業、ひいては社会全体に不利益があることがうかがえます。私は、このように差別をすることによって差別される側だけでなく、差別する側にも不利益があるということに少々不謹慎ながら面白さを感じました。
というのも、差別とは往々にして差別される側の見に不利益があるように思われます。実際、私も黒川先生の著作を拝読するまではそのような事例しかないと思っていました。しかしながら、今回紹介したように、部落民を就職において差別した場合、本来の能力を評価されません。つまり、部落民でなければ就職できた人も落とされてしまうのです。
これらが表すことは、差別された部落民と本来有能な社員を雇わなかった企業の両者の不利益です。もちろん、差別によって入社を認めなかった企業がそれについて文句を言うことはありませんが、その大きさは問わなければ損をしていることには変わりないのです。
このように考えたとき、差別は、差別される人間の不利益にとどまらず、社会全体に対して悪影響をもたらすことが分かります。これは部落差別に限ったことではなく、それこそ女性や障がい者の雇用における差別でも当てはめることができます。差別をすることで差別をする側にも不利益がある。このことにいち早く差別をしている当人が気づくことができれば、この世から少しだけ差別が減るように感じました。
また、この不利益というのは必ずしも実利だけとは限らず、個人単位の差別で見た際の精神的な悪影響も考えられます。広島大学心理学研究所による2019年の調査【「無意識の偏見」が差別に対する評価に及ぼす影響】において、差別を行う側も、自身の偏見や先入観に気づかないまま行動することで、長期的には罪悪感やストレスを感じる可能性があり、これは個人の精神的健康に悪影響を及ぼす要因となることが分かっています。
すなわち、差別とは就職差別を代表に個人間によるものであっても差別する側にも悪影響を及ぼす可能性を十分に孕んでおり、倫理的な悪として以外にも負の側面を持っていると言えます。前述の通り、このことに差別する側が自力で気づくことのできる社会になれば、差別は減少するのではないかと、素人なりに考えました。
今回履修させていただいた「近代日本社会と人権」でしたが。秋学期、最も自分の価値観に対して衝撃を与えた授業でした。著作中にもありましたが、無知なる学生は何も知らないが故に何にも染まりやすいです。かくいう私も部落差別に関しては無知蒙昧を極めており、この講義を受けていなければ正しい知識と出会うことは生涯なかったかもしれません。
もちろん、私が正しい知識を人より少し身に着けたからと言って、突然部落差別がなくなるようなことは断じてありません。しかしながら、現在恵まれた環境で何不自由そして差別されることなく過ごしている私のような人間は、まず問題を認識する義務、言い換えれば一種のノブレスオブリージュのようなものを感じます。
現代の日本人、特に学生はこの部落差別という実態にひどく無知です。前述の通り、問題を認知したところですぐに何かが変わるというわではございません。しかし、日本が民主主義国家である以上、問題を知っている国民が増えることは与える影響は少なからずあると思います。
問題を認知し、そして正しい知識を身に着ける。必ずしも具体的な行動に移さなかったとしても、これが差別のない社会に一歩近づく行為だと信じます。
ありがとうございました。 7285字
参考文献
「無意識の偏見」が差別に対する評価に及ぼす影響
file:///C:/Users/ryohe/Downloads/HPR_22_1.pdf
誰が読むんだよ
もし読んだ人がいたら連絡ください。
2024/12/23 8049字
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