タイトルは完全に願望。
今回は「基準の話」
誰しも、人生の中で「えらいね~」と言われた経験はあるだろう。
信じられないかもしれないが、かくいう俺も言われたことがある。
特に高校生の後半に言われることが多かった。特に言われるのは勉強と部活動の両立。よく言われたのは高校三年次、定期テスト期間中にも部活動をしながらテスト勉強をしていたことに対して。
また。指定校推薦を使って入学したことに対しても、「三年間頑張って成績取っていてえらい」と表現されることがある。
大学にて。ひどいときは「ちゃんと課題だしててえらい」とかいう言葉も聞く。
本心で言っているかは知らないが…
これらのことに関して、俺は昔から割と違和感を持っている。今日はそのことについてつらつらと書いていく。
少し久しぶりの完全な”ひとりごとシリーズ”である。
それではさっそく。
自分のためにやっている
たしかに、三年間を通してきちんと優秀な成績を取っている人を見かけたら「えらい」と表現したくなる。
俺も同意見だ。
ただし、自分が言われるとなると違和感が生じる。この違和感の正体を探るため、我々探検隊はアマゾンの奥地へと歩を進めた…
理由ははっきりしている。それは「全て自分のためにやっているから」である。
成績を取るのは指定校が欲しいから。指定校が欲しいのは受験勉強がしたくないから。
果たして、自分のためにやっていることに対する「えらい」という表現は正しいのだろうか。
“えらい”という言葉
まずは、”えらい”という言葉をきちんと理解する必要があるだろう。言葉の意味が知りたかったら辞書を引く必要があるが、面倒なのでインターネットの辞書に頼る。
おそらく、今回見るべきは1の意味。そして㋑のほうだろう。
1だけ、つまり”普通よりもすぐれている”という意味合いだけで見れば俺もえらいことになるが。細分化された意味の㋑で見ると、おそらく違うのだろう。
少しややこしい結果になってしまったが、正しい”えらい”の意味を考えるのであれば1だけではなく、きちんと㋑を採用すべきだ。
つまり、俺はえらくなかったのだ。
俺は人間としてりっぱ?すぐれている?
成績としては立派で優れているかもしれないが、=人間として優れているかと聞かれれば。おそらく俺の友人たちはノーと答えるだろう。
おい…
否定する材料もないので、黙ってうなずいておこう。
なにしろ、勉強したくないという理由で成績を取っていたのだ。悪いことだとは思わないが、積極的に褒められることでもないだろう。
もちろん。そんな理由でも勉強してるだけ偉いと考えてくれる令和のキリストもいるかもしれない。それは画面の前のあなたかもしれない。
ただし、「勉強すれば人間としてりっぱですぐれているのか」という疑問は感じざるを得ない。
結局、”人間としてりっぱですぐれている”の意味をはっきりさせる必要があるだろう。
人間として、りっぱですぐれている。とは
辞書で調べるのは面倒なので、久しぶりにパプちゃん(perplexity AI)に登場いただこう。
いろいろと書いてあるが、要約すると「秀でた能力に加え、人格的にも優れている状態」を指しているのではないだろうか。
まあ。概ね皆さんが想像する尊敬する人を当てはめれば都合がよいだろう。
もちろん。りっぱやすぐれていると一言で言っても様々種類があり、全てが当てはまる必要はないと考えられる。
俺はどうだ?
せっかくパプちゃんが具体例を出してくれたのだ。それの一つでも当てはまれば、俺の成績神話は”えらい”と表現することができるかもしれない。
パッと見たところ。当てはまる可能性があるのは二つほどあった。
①努力家で、向上心があり、常に自己成長を目指している。
②逆境に強く、困難な状況でも粘り強く取り組める。
自分で書くのは死ぬほど恥ずかしいが、すでにこのブログを書いている時点で黒歴史は脈々と紡がれているので許す。
①努力家で、向上心があり、常に自己成長を目指している。
まあ。間違ってはいない。
努力にはある程度自信がある。というか成績は努力しないと取れない。特に俺のような凡夫には必須な能力だろう。
また、向上心も持っており、自己を成長させるに必死な毎日だ。陸上競技を大学でも続けている時点で、これはクリアしているかもしれない。
②逆境に強く、困難な状況でも粘り強く取り組める。
陸上の大会とテスト期間が被るという逆境に立ち向かい、どちらでも成績を残したという点において。こちらもクリアと言って差し支えないだろう。
なんだろう。今日は自己肯定感が上がる。
粘り強さに関してはあまりエピソードはないが、ある程度陸上で鍛えられている自信はあるので良しとしよう。
俺、えらいじゃーん
なんだ、俺ってえらいんだ。
そんな結論が許されるかは別として、一定の根拠を持った話で自分を納得させることができた。俺が当初考えていた「自分のためにやっていることはえらくない」という話はどこにも書いていなかった。
自己の利益のみを追求し、他害の恐れがあれば別だと思うが。自己研鑽という意味であれば、必ずしも他人のためが”えらい”とは限らないらしい。
長年の疑問に終止符を打つことができて良かった。
これでインスタのプロフィールに「えらい人」と書くことができる。
とはいえ
とはいえ。今回の結論は全てインターネットの情報から導き出している。
もちろんなるべく信頼度の高い方法で調べているものの、AIですら既存のネットの情報から平均的な答えを回答しているだけだ。
というかそもそもこれは答えのない問題でもある。
人によって”りっぱ”や”すぐれている”の基準は異なっているし、それらを言語化できる人間など一部だろう。
つまり、結局俺はえらいしえらくないのだ。
見る目が異なれば映り方も違う。俺をえらい人間と映してくれる人もいれば、そう思わない人だっている。
自分がどのように自分を見るのかも大切になり、最終的には他人から見る自分と自分から見る自分のどちらをより尊重するのかという問題になる。
俺は他人の目線が自分を作ることを認識しながらも、やはり自分から見える自分が大切だと思うので。最終的に「俺はえらくない」と結論付ける。
はい。もう頭がパンクするので終わります。
まとめ
何を書いているのか分からなくなってきたが。まとめると、どれだけ努力をしていても、結局自分の利益のためにやっているうちは”えらい”なんて言葉を受けるに足らないという話だ。
あくまで俺の意見だが…
ぜひ、自分の基準に当てはめて自分の行動を見直してみてほしい。
もし一つでも”えらい”とほめることのできることがあれば、きっと誇ってよいことではないかと思う。
俺もそんな存在を目指し、とりあえずは今頑張っていることを継続する。
いつか人のために頑張ることを見つけ、精いっぱい生きていきたいものだ。
2024/12/17 3239字
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